宇宙へ・植松努の挑戦:/4 奇跡の出会い /北海道

 ◇どんな夢でもかなう
 電磁石の市場をほぼ独占した植松電機は00年、工場を芦別市から赤平市へ移した。大手企業を相手に渡り合うことが増え、専務の植松努(42)は年の半分以上が出張。右肩上がりの売り上げが、技術者を企業人に変えた。全国を飛び回る航空機のシートに体をうずめ、自問することが増えていた。「なぜ働いているのだろうか」
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 03年の暮れも押し迫ったころだ。赤平青年会議所の会員となっていた植松は、奉仕活動の一環で、北広島市の児童養護施設を訪れた。80人の無表情な子どもたちがいた。話しかけると、パニックを起こした。職員に「親に虐待された子どもたちだ」と聞かされた。
 「子どもから人生の選択肢を奪った親、大人への怒りがこみ上げてきた」。植松はふと、自分の過去を顧みた。そこにも夢を笑い、奪おうとした大人たちがいた。「何とかしたい」。突き動かされる衝動を覚えた。その結果たどりついた答えが、「どんな夢でもかなう」ということを自分で示すことだった。「自分を見て、子どもたちが生きることをあきらめなければいい」
 ロケットを宇宙へ。夢が再点火した。
     ☆  ☆
 まず地元の子どもたちを集めて紙飛行機教室を開いた。青年会議所の活動として、赤平市に宇宙航空研究開発機構(JAXA)の職員を招き、講演会も企画した。だが宇宙は遠い。どのようにしてロケットをつくるのか。その道筋はなかなか見えてこなかった。思い悩む植松を「神様が導いてくれた奇跡の出会い」が待っていた。
 日産自動車宇宙航空事業部を経て、北海道大大学院准教授(現教授)をしていた永田晴紀(43)=宇宙工学。宇宙開発に対する誇りを国民全体で共有できる時代が去ったと感じていた永田は、民間利用を促すことで、再び宇宙と社会の距離を近づけようとしていた。
 そのために絶対不可欠な要素が、利用しやすい安くて小さなロケットの開発だった。永田は当時、「カムイ型ハイブリッドロケット」と名付けたロケットの開発を手がけており、噴射実験を行える場所を探していた。
 互いの知人を通じて出会った永田と植松。「大きな音が出るから、大学では実験がやりにくい」「ウチでやればいい。田舎だからどこにも迷惑はかからない。工場には金属加工の機械もある」。話はすぐにまとまった。
 04年9月、カムイの噴射実験が、植松電機で初めて行われた。間近で火を噴き、轟音(ごうおん)を上げるロケット。植松は「単純にうれしかった」。だが、本心は別にあった。「実験だけではなくて、ロケットをつくりたい」
 植松は自らの生命保険を担保に1億円を借り入れ、工場を新設。ロケットづくりができるスペースを確保した。また、無重力状態をつくり出す「微小無重力実験施設」も建てた。「宇宙開発のシンボル」とも言える高さ58メートルの塔。無料開放すると、JAXAや北大の研究者らが続々と訪れた。
 当時の植松を振り返り永田は笑う。「バシバシと攻められた。ロケットの研究、開発に加わりたいという強い姿勢がとても印象的だった。こんな人は他にいなかった」。カムイは植松電機でつくられるようになった。そして、05年3月、植松のつくったロケットが初めて打ち上げられた。(敬称略)=つづく

yahooニュースより引用

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